不思議体験
なんかちょっとわかったことがあったの!!
(2012/7/13のブログより)
今日のブログの話題は自分の中でも まだよく理解出来ていない
まだ 上手に説明できないかもしれないトピックについてですが
私の中では 究極にはじけるぐらいの気づきだったので ちょっと
わかる範囲ですが 紹介したいと思います。
昨日、ふと家族と話しているときに ベランダにある半永久的に点灯する
ソーラーランプの話題になりました。
半永久的ということは もしかしたら ランプの寿命の方が長いこともありえるなあ。
自分が死んだ後も このランプは灯り続けるんだなぁと
ふと 思った瞬間に 果たしてそうだろうか?と,ある疑問を感じたのです。
自分が死んだ後の世界では このランプが灯り続けようがどうしようが
もう認識することができないのだから・・・もうランプは存在していない
ということなのではないだろうか?
そこで娘が「なにいうてるん?お母さん 私はランプの話をしてるんやで
たとえ、その人が死んだあとも ランプはあるに決まってるやん」
というのですが、「いや違う」と引っかかってしょうがないのです。
そして、そんな小さな出来事から これは 認識による世界観の違い
ではないだろうか?とふと気付いたのです。
量子物理学の実験において、実験を認識して見ている場合と
誰も認識せず見ていない場合では 実験結果が変わるという報告がされました。
こういったことを踏まえて アインシュタインが言った言葉に
「バカな!!月は私が見ていない間は存在しないというのか!?」と
自らの科学論に反する結果に ちょっと絶望したようなセリフを言った
ということを何かの本で読んだことがあります。
私が昨日感じた ランプの存在についても 同じことが言えるのではないか
と思ったのです。
実は私達は 本当は 認識している世界でしか 生きることは出来なくて
認識していない部分においては 他の世界はまったく存在していないも
同じなのではないか? ということなのです。
もうちょっと例えていうと・・・
この世界が ジオラマで出来ているとして ジオラマが作られた後に
一人の人物として 自分がひょいと このジオラマの世界に生まれて
加わったとします。つまりジオラマの世界が全てで 私達は
その中の 一つの登場人物の一齣までしかない とするとらえ方です。
基準は全て そのジオラマの世界からみた全てです。
何らかのルールも 流行も 人の価値も お金や ものの価値も
すべて このジオラマの世界での取り決めです。
そういった 世界観で 先ほどのランプを見れば
ランプは ジオラマの世界が尽きるまで ずっと存在し続けます。
しかし 私が思ったのは ジオラマに生きていたと思っていた人が
死んだ後の世界のランプのことです。 死んだ人は その後のジオラマも
ランプも もう知りようがないのです。 ということは その人にとって
もう 存在しないのと同じです。
そして これは 私達が死なないと わからないということでしょうか?
「いや 違うぞ!! 生きていても 自分の認識のとらえ方によって
ランプが存在しない 生き方も出来るぞ!!」と思ったのです。
自分が認識している世界でしか 物事が存在しないとしたら
この世界をコントロールしているのは 自分です。
誰かのせいにすることも 何かに巻き込まれた ということ自体も存在しなくなります。
今日会ったタクシーの運転手さんも 家に帰ってご飯を食べて
テレビでも見て と想像することはできますが、今 運転手さんは自分の
認識の外にいます。ということは 自分の世界には もう存在していません。
なんだか こういって 言葉にしていくと 難しいのですが
この概念は もしかして 「今を あるがまま 生きる」の意識
そのままなのではないか?と思えたのです。
例えば Aさんとケンカした そしてぷいっとして そのまま別れた。
家に帰っても Aさんの言動を思い出しては 腹が立ち
いつまでたっても忘れることが出来ない。というのも まさにこういうこと
ではないでしょうか?
家に帰ったら もうAさんは そこに居ないのに
どうして 腹がたつのでしょう? 自分の認識の外のことは存在しない
としたら 例えば そのAさんが どうも怒りが治まらず
私の家まで訪ねてきて 目の前にAさんが 現われたのなら
また ケンカの続きは始まるかもしれません。
でもAさんがいるわけでもなく 家に帰ったら 子供達がお腹をすかせて
食事を待っていたのなら 食事を作るという認識に変わるだけです。
心を込めて 楽しい食事をすることに専念すればいいのではないでしょうか?
クロアイ家は おかしな家で 子供を交えてまで こういった話をします。
すると 娘は「お母さんみたいな 考え方やったら お話を作るための
創造力や 感情豊かなこととかも あかん ってことになるんじゃないの?」
う~~~ん そうじゃないんだよな~ そうじゃなくて 認識のちがいだけで
・・・ う~~ん でも よく説明ができないようなぁ・・・
でも すごい わかった!!って 思ったんだけどなぁ~
「ちゃんと説明できるようになってから 話してくれる? ようわからんわ」
じゃんじゃん!!ってなことで 娘のこのクールな一言で話題は終了したのですが、
それからも 自分の中では いい線いってるんやけどなぁ と
寝る前まで そのことを思い続けていましたというか そのことしか
頭に在りませんでした。
自分で認識出来る世界だけしか存在しいひんとしたら、
つまり、もう、鬱になるとか 被害者意識で生きることもなくなる
ということやもんなぁ。
だって 自分の世界観で 自分のコントール下において
あえて自分の首を絞めるようなことをする人はいないわけだから・・・
ジオラマからの目線で 自分を見るから ジオラマ社会に適していないと
落ち込むけど 自分が認識する世界しか存在しないとしたら
どんな風にも考え方を変えることが出来る・・・この点はいい線いってる
ように思う!!
でもな~ 自分の認識した世界しか存在しないとしたら
自分勝手なルールや方法を 自分の世界観やといって 横暴になってしまいかねないよなぁ
こういった世界では 道徳的観念がすごく大事になってくるしなぁ
でも この自分の認識で世界を見ると 自分で自分の責任も取れるという
価値観に変わってくる筈なんだけどなぁ~
そして、ふと 思ったのです 自分の認識の世界のコックピットに座っているの
いったい誰なんだろう?って・・・・
こんな風なことを懸命に考えている私っていったい誰なんだろう?
これが ラマナ・マハルシが言う 私は誰か? ならば
このコックピットに座っている私こそが 自らの肉体と思考と感情を通して見た高い意識の
自分ではないだろうか?
そうなると 自分の認識の世界といっても 神なる意識の高さの一部であると
するならば、ぜんぜん 横暴にならないし はちゃめちゃにすることもない
だって 宇宙は愛と喜びなんだからね!!
やった!! 決まった!! こういうことだったんだ!!
私という 人間型サイボーグを通して まるで光を照らすように
今現在認識した世界をそのまま生きることが 悩みや不安から解放される
方法につながるんだ~!! うん これは やっぱ 素晴らしい発見かも!!
さて、 ブログを読まれている皆さんは どう感じられたでしょうか?
なんのことやら ちんぷんかんぷんでしょうか?
また ソフィーママの戯言がはじまったよ と思われたでしょうか?
私の願いは 自分の素晴らしさに気付いて もっともっと意識を高めていきたいという人が
もっともっと増えていって欲しいということです。
自分を貶めたり 過去を後悔し 未来を不安視したりする必要なんて
全くないことを知らせたいからです。
もっとわかりやすく 説明してよ!!と思われる方もいらっしゃったかもしれません。
でも この概念は もしかして 本当に言葉を超えて 感覚と
意識する目線のずれによって 意見はいろんな方向に分かれると思うのです。
でも ちょっとでも 私の気づきに 同調して あっそうか!!と
感じられて 生きることが少しでも楽になられる方がいらっしゃるかも知れないと思い
筆を執ってみました。
これからも なんか そうかも!!と思うことがあれば 臆せずブログで
紹介していきますね。だって私の認識の世界では こういう話が
大好きなんだもの!!
Mama Sophie