「自分、一世界」って どんな世界?
(2014/5/23のブログより)
情報という言葉にやられてなかった世界。
知識や常識などに侵されていなかった世界。
・・・・つまり 幼児の時に体験したような
自分中心の世界観で見た世界・・・
決して わがままで 傍若無人になりなさい といってるんじゃないよ
夢中になって 周りが見えてなかった世界ってことなんだ。
子供の時って「なりきること」って多くなかった?
私はテレビのヒーローものから スポ根 魔女っ子ものまで
全てにおいて すぐに影響された。それに夢中になっているときは
まさに それそのものの世界を生きていた。
だから 好みがすぐコロコロ変わった。
習い事や 習慣付いたこと(日記を書く)などが
一切続かなかった。
でも 毎日がとっても幸せで 一日遊び疲れて
お布団に潜り込む あの感覚が堪らなく好きだった。
そして そんな大好きなお布団なのに 病気で2日も寝込むと
大っ嫌いになったり(^_^;) と
本当に自由奔放に 毎日を楽しんで生きていた。
ソフィーはそんな 幼い気持ちが 結構長く続いた子供で
よく 友達からも「変なの」って言われていつも仲間はずれにされた。
しかし どんなことの中にも 遊びを見つける天才だったので
一人遊びのほうが好きで 今でいう「しかとする いじめ」には
あとから気づくことも多く、あまり影響を受けなかったかもしれない。
それよりも 嬉しいことは何でも無邪気に話してしまうので
秘密主義的な田舎の大人社会にはフィットせず
よく大人から意味もわからず叱られたことの方が堪えた。
そんなこんなで 子供の頃を思い出すと 自らの性格形成が
よくわかるけれども やはり今でも 突飛な行動をしてしまうのは
幼児的な視点「自分、一世界」が時々現れていたからだと思う。
さて ここまで書いても 私のように単純で影響されやすい人
じゃない場合 このケースは単なる「馬鹿な子供」とでしか
見えてこないと思う。
かといって 公でキャーキャー騒いだり
周りの空気が読めない子供だったわけでは 決してない。
その逆で 異常に感受性が強い子だったので
精神的なダメージは、大人になった現在の目線からみても
相当あったのではないか?と可哀想に感じてしまうほどである。
さて、前置きが 長くなってしまったけど
皆 子供だったときがあるように 言葉や知識に侵されてない
時も、もちろんあった。
だから 「自分、一世界」は絶対経験しているはずなのだ。
そして これほど幸せな世界ってない ってことも知っているはず。
とはいえ、加速する情報化社会の中でつい巻き込まれてしまい、
その感覚を忘れそうになる・・・そんな時の私がいつもやる
子供時代の感覚を取り戻す方法を書いてみるね。っていうか
恐縮するほど 簡単なんだけど・・・
まず 意識を何らかの対象物に向けるのではなく
自分自身に向ける。
難しかったら 海岸で砂浜に字を書くことをイメージしてみて。
そうやって 自分の世界に意識を向けながら
今度は 目の焦点を外して 周辺視野で外の風景を眺める。
出来れば 街中ではなくて 自然の中でやってみて欲しい。
山や海に出かけて行かなくても 京都で言えば鴨川など
公園などにある ちょっとした自然の中でも実践できるはず。
すると 不思議なことに「ふと時間が止まる」「思考が止まる」
「風を感じる」「草や土の香りが強まる」「なんか安心する」
「直線上の時間ではない 既にある世界という感覚になる」
そして この世の中の不安が全て消えていることに気づく・・・
「周辺視野で世の中を見る」 という方法は
近視の人がメガネを外して どこを見るでもなく
ぼーっと目を休めている時の感じに似てる。
近視の人は 3Dアートの見方(周辺視野で見ると絵が立体的に見える)
が簡単にできるけど よく見える人は 常に焦点を合わせてしまう
癖があるので 絵が立体的に浮かんでくるまでに時間が掛かるように
逆に言えば この3Dアートが 周辺視野の練習になるかも知れない。
例えば もう少し身近な方法として
お日様が照っている日向の風景、花壇のお花や コンクリートの手すり
などを周辺視野で見る方法もある。
知らぬ間にその空間の世界に自分がいる感覚を覚え
何とも言えない、安心感、幸せ感、自然の一部感を感じたら
「自分、一世界」の完成である。
そのような見方に慣れると ちょっとした日常の中にも
「自分一世界」が沢山あることに気づく・・・・
シャーマニズムや文化人類学の代表作として有名な
カルロス・カスタネダの著書作品の中に
同じく「周辺視野でものを捉える」という記述がある。
それは「視線をどこにも固定せずに長時間歩く」というもので
目を少し内側に寄せ、視界に飛び込んでくるもの全てを180度の
周辺視野でとらえる という訓練法なのだが、
興味深いことに これこそが
「内部の対話を止める、唯一の方法である」と書いてある。
文中でカスタネダは、10分もの間 なんの思考も浮かばず
歩いていた自分にとても驚くのだが、
「内部の対話が止まることがシャーマン世界への第一歩」
と説くほど これはとても重要なことらしい。
まさに これこそ「自分、一世界」じゃないか!!
と記述を読んでとても共感した。
同じように思考は止まるし 何ともいえない あの懐かしい
感覚に包まれるし・・・
この見方で世の中を眺めてみると 様々な情景が ただあるだけで、
何の理由も説明もいらない。
もしかして 「悟り」という概念は これに近いのではないかと
ふと 思うこの頃である。
確かにこの状態にあると「人の目」なんかも気にならないし
思考がないのだから「恐怖」も「比較」も存在していない。
またスピリチュアルの世界で言うところの
『覚醒』というのも もしかしたら この世界にずっと
居続けることではないか とまで 思ってくる。
それほど 悩むことなく、ただ自分でいられる世界なのだ。
私の師の一人である、クンルンネイゴンのマックス・クリスチャンセン氏は
「再覚醒」について、それは全てのマインドを浄化した
子供の時の状態に戻ること とはっきり言っている。
このことからも もしかして この「自分、一世界」は、
なかなか いい視点かも知れない。
とはいえ、すぐに忘れてしまって いろいろと悩んで四苦八苦するのも
これまた人間だからしょうがない・・・・けど (^^ゞ
ポイントは、一人になる時間を増やしてみること。
そうすれば、いかに私達が「頭の中の対話」を日常的に
繰り返しているかに気づくことが出来ると思う。
まあ この感覚さえつかめば 悩んだときは 自然に出かけて
自分の世界感に戻れるので、このことを知らないよりは、
知っていた方が ぜったいお得だとは思う。
ぜひ一度 一人になって この「自分、一世界」の方法を
試してみて欲しい。
そして ありのままだったあの頃の幸せ感に浸ってみよう!!